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てすと

 てすと

doll

鏡に映るのは 夜の帳の色の髪。
星色の吸い込まれそうな瞳。
男性にしては細めの首筋。
鎖骨に掛かる緩やかな毛先。
骨ばった肩。
筋肉質な腕。
うっすらと欠陥の浮いた甲。
節くれだった指。


何度見ても、変わらない
目の前にいる人は。

「…どうして?」
聞きなれた低いヴォイス。

違う
違うのだ
聞きたいのはそんな声じゃない!

振り上げた拳を目の前の鏡に叩きつける。
予想以上の負荷がかかった鏡は
雲の巣状に亀裂を走らせ、
この姿を隠そうとする。


「…いったぁ」
拳が真っ赤な鮮血で染まっていた。
よく見たら
小さなガラスの破片が傷口の上に
散っていた。
その上からもう一方の手を翳して
きつく握りしめる。


「−−−っ!!!」
電流のような痛みが全身を走り
堪えきれず
膝を付いてその場に崩れた。
圧力をかけられた傷口は
歪んで内部から
もっと多くの血を溢れされた。
生きた温かさが皮膚を伝って
足元に血溜まりを作った。



嘘ではない。
勘違いでもない。
この感覚は
目の前の人物から
伝わってきている。

これが、現実。

「…なんで、 なんでなんだよぉ…っ!!!」


どうしてだ
最愛の人を守るために
この世界を放棄した私の目に映る私が
何故
彼そのものなのだ。


いつも聞いていた声が
弱弱しく戦慄いていた。
何度も繋いでいた手は血に染まり
鋭い痛みと熱を発し

大好きな貴方は



どこにもいない。

十戒



 ねぇ。
何も考えずに
理性も建前も総てをかなぐり捨てて
本能の赴くままに
貴方を愛せたら。
私は幸せになれると思う?
なんでだよ。
心のままに俺を愛してよと
貴方が視線を逸らして
いじける。
あらダメよ
私がこの心の柵を総て取り去ってしまったら
もう何処にも行かないように
貴方の四肢を切り落として
もう私以外のものを見ないように
両目を抉り取って
暗い暗い
小さな部屋に閉じ込めてしまうわ。
貴方との間に子供だって欲しくない。
だって貴方の血を半分流しながら
貴方はその子を愛すのでしょう?
私、嫉妬で狂ってしまうわきっと。
ねぇ、貴方はこんな私を
婉曲した女だと蔑むかしら。
でも殻を割れば
みんなが同じことを考えてると思うわ。
昔の人は神様と人間との間に
約束を作ったでしょう?
それを改めた人は
きっと解っていたのだと思うわ。
真の人間は
野蛮で暴虐無人であると。
だからその人を縛るための戒律こそが
人を人として
ここに居させてくれる約束なのよね。

ふふ、だから
現実という抑制があってこそ
私は今
貴方をこうやって
愛することができるのよ。

答え

 お前の言うとおりだ。
俺は明良のことを理解してやれない。
俺はあいつのように壮絶な痛みも苦しみも
想像の中でしか思いやってやれない。
知れば知るほど
自分とは懸け離れた存在なんだなって思い知らされる。
俺はとても無力だ…
でもそれは誰だって一緒だ。
同じ体験をしていれば、
ソイツの救世主になれるのか?
過去の痛みに閉じこもって
お互いを慰めあうだけでは何も解決しないんだ。
さっきも言ったが、
俺はあいつの苦しみを共有してやれない。
あいつの苦しみは、あいつだけのもので
自分自身が向き合っていかなきゃならないからだ。
自分を救えるのはしょせん自分だけだ。
悲観してるわけじゃない、
それはどうしようもない事実だ。
人間は総てを守ってやらなければならないほど
ひ弱な存在じゃない。
明良だって
自分と向かい合えるくらいの強さは持ち合わせている。
俺にできるのは
そうやって自分と向かい合って、
打ち負けてしまったとき
頑張れって手を握ってやること。
打ち勝てたとき
お帰りって抱きしめたやることだけだ。
…くだらないってお前は笑うのかもな。

でも、それが俺の精一杯の答えだよ。

Drug&Anodyne b

成田空港に来たのは随分前だったなと、
古い記憶を手繰ってみたが思い出せない。
反響するアナウンスや行き交う多種多様の言語は まるで騒音だった。
夏彦は視界を遮るために被っていたワークキャップを
更に目深に被る。
もともと出不精な性格に輪をかけて
仕事で滅多に外出しなくなったことで
夏彦の協調性のなさは格段に悪化した。
人の多く集まる場所にいるだけでも
軽い頭痛や目眩がし、呼吸が乱れた。
一体何故俺がこんな目に遭わなければならない、
そもそも6年も連絡をしていないで今更何の用だというのだ。
言い知れぬ苛立ちが沸々と込み上げてきた。
もういっそ何もなかったことにして
この場を立ち去ろうかという考えに襲われた。
(でも…。)
記憶の奥にある笑顔が夏彦の足を踏みとどまらせる。
近衛明良はドイツ人の母を持ち、
すれ違う人の目線を総て浚えるほどの美しい容姿を持っていた。
そこに嫋やかで愛らしい性格も加わり、
一族が挙って明良を持て囃した。
夏彦の弟と同じように。
なのに明良が興味を示したのは
同じように完璧なものを兼ね備えている弟ではなく、
完璧な弟に比べて
何もかもが劣っていることを卑屈に感じている自分だった。
最初は自分に同情しているのだとか、
そういう猜疑心に捕らわれ
いつも後ろからついてくる明良を無視していた。
なのにあいつはしつこく俺にばかりくっ付いてきた。
人間として欠陥だらけの自分を好む
明良の思考がどうしても理解できず、
いつも冷酷に突き放していた。
その度、明良は困ったような顔で俺に微笑む。
自分を救ってほしいと縋りながら、
この子供じみた嫉妬も、
どうしても受け入れられない事情も知った上で
「仕方ない」と総てを受け入れる微笑み。
最後に見た、俺を庇い続けた同情の笑顔。
あの笑顔がいつまでも心の根に張り付いていて、
心を締め付ける。
国際便のアナウンスが流れ、
ゲートから人が溢れ出す。
電話の男性が言っていた便だ。
夏彦はベンチから立ち上がって流れる人の波を凝視する。
といっても明良と会ったのは6年前だ。
成長期の13歳から6年も経てば
背格好で判別することは不可能だろうが。
「日向野、夏彦さんですか?」
声をかけていたのは長身の金髪の男性だった。
やはり夏彦の予想通り日本人ではなかった。
「御足労おかけします。
彼から貴方の容姿について聞かされていたので
すぐに発見できました」
深々とお辞儀をし、丁寧な言葉づかいは
とても異邦人のそれとは思えなかった。
男性に促されるように後ろの影が動く。
なんということだろう。
目の前に現れたのは
6年前とほぼ変わることのない
背格好の近衛明良だった。
いや、それよりも驚いたのは
あの頃の柔らかい物腰の雰囲気は欠片も見当たらず、
外部に露出している皮膚という皮膚が
絆創膏や包帯で覆われていた。
「明良くん」
男性に呼ばれて明良は伏せていた顔をゆっくりとあげる。
長い前髪の下に隠れていた眼が露わになる。
左の目には大きなガーゼが宛がわれており、
右の茶色の瞳は美しい色を放ちながらも
どこか淀んだ色をしていた。
「明良」
6年ぶりに発したせいか、声が上ずっていた。
夏彦の声に明良の体が僅かに感応する。
「…なっちゃん?」
6年ぶりに聞くあの時の同じ懐かしい声だった。
6年前となんら成長していない自分、
なんら変わりのない明良。
長い時を隔ててもお互い柵からは解放されないのだろうか。
明良の右の瞳から落ちた涙が
始まりを告げる合図のように夏彦は感じていた。

Drug&Anodyne

遠くから空を割るようなサイレンの音が近づいてくる。

地を蹴り上げる複数の足音とどよめきが

担架と共に扉の奥へ吸い込まれていく。

自分は緊迫した部屋の前を忙しなく交錯する人々を

ただ薄ぼんやりと眺めていた。

心には破門ひとつ立たず、

扉の上で恍惚と光るランプを見上げていた。

赤い色がやけに目に痛かった。

事態は人々の心に、

少なくとも親族の心に大きな亀裂を残したのだろう。

自分ただ一人を除いて。

その事実に涙の一つも流れなかった。

でもこれで明確になったことがただ一つある。

葬儀も程々に片付き、
憔悴仕切った親族の前で静かに言い放った。

「僕は何も要りません。

財産も権力も名誉も何もかも必要ありません。

総てをお返しします。

その代わりにお願いがあるのです」

あぁ、やっとこれで

「僕の存在を、忘れてください」

僕は自由になれる。



その世界から自分を引き離したのは

家じゅうに響き渡る電話のコール音だった。

どうやらサイレンに聞こえたのはこの音らしい。

なんだ、紛らわしい音をしていやがる。

日向野夏彦はもそりとベッドから抜け出す。

家の電話番号は限られた人間しか知らない。

しかもかけてくるのは凡そ仕事関係の人間だけだ。

無視しても良かったのだが

あまりにも長い時間コールし続けるので

陰鬱な気持ちを引きずりながらも受話器を取る。

2分以上もコールするなんてよっぽどの失態をやらかしたんだろうか。

「…もしもし」

しかし返ってきた声は予想していた人物からではなかった。

「日向野夏彦さん、でいらっしゃいますか?」

知らぬ男の声だった。

イントネーションが若干おかしな点から

相手は日本語が達者な外国人のような気がした。

「えぇ、そうです」

「実は近衛明良さんのことでお電話させていただきました」

近衛明良、

それはずっと昔疎遠になって記憶の彼方に追いやってしまっていた

幼い親戚の名前だった。

「えぇ、そうです」

「少しお話が長くなりそうなのですが、お時間よろしいでしょうか?」

電話の回線を子機に移し了承すると

男性の声が少し和らいだようだった。

もう何年も見ることがなかった家の夢。

そして今更現れた遠方の親戚の名前。

単なる偶然とは思えなかった。

どちらにせよ面白いことにはならないだろうな。

夏彦はため息を抑圧しながら男性の話に耳を傾けた。

アナモル・フォーシス『MONDO PIECE』 d

 噛まれた指の上をを赤い線が流れる。
解っているのだ
本当に隙間を埋めて欲しい相手を。
幸せや痛みをほんの一瞬だけ知っているのと
全く知らないで生きているのは
一体どちらが不幸なのだろう。
知らなければ求めようと思わなかった、
恋焦がれることだって無かった。
でもその一瞬の恍惚を知ってしまった。
あぁなのに、
この隙間は風が吹くばかりで
冷たさが体に染みる。
満たされたいと、渇望する。
噛まれた指には、血が滲んでいた。
「優しいって、どういうことか解るか?
人の痛みを知っていることじゃない、
自分が如何に醜く汚れた極悪人かを知っているヤツのことさ。
だから他のヤツがそうであっても
赦すことが出来る」
かつての自分は、醜悪で彩られた自分自身に失念していた。
私欲のために一度は捨てた息子の手を
自身の復讐のためにもう一度取った。
彼は屈折した、愛憎とも情欲とも言える
瞳で俺を拐かした。
なのに彼は最後に俺に乞うたのだった。
それは無性に愛されること。
生きる価値もないと自分を蔑ろにしていた彼が
幼い頃から夢見ていたもの。
親として、俺は彼にそれすら与えてやれず
結果、その背を永遠に抱きしめてやることはできなかった。
悲しみと苦しみを言語化する術を知らず
震える手だけが
屈折した悲愴を訴えていた。
冷たい彼女の頬に掌を当て
涙の筋道をそっと拭う。
それでも尚涙は止め処なく流れ続けるが
これがあの時の罰だというのなら
甘んじてこの身を捧げよう。
俺の人生を、息子を天へ届けてくれた
深海に沈んだ瞳を輝かせることが出来るのなら。

 

 

「……ホント、あなた馬鹿みたいなお人好しよ」
何も知らないくせに
私の罪を、過ちを赦そうって言うのだから。

ねぇ、貴方ならわかってくれる?
ある日訪れた魔法使いは
私の半身を引き千切ってしまったの。
半分だけしかない身体を守るために
私は私の心を閉ざしたの。
外界から自分を守る術として
分厚い殻で、世界を隔てたの。
そしたら世の中に溢れる心を震わす総てのものが
私を打ち抜こうとする弾丸でしかないの。
この体は偽物だから
血は、流れない。
でも衝撃は私の心を撃ち震わせ
心は、いつまでも平穏を保てない。
誰がわかってくれるの?
私の中に生きる最愛の人にすら
もう私の声が聞こえないのに
あの人だけが私のことを知っていてくれたら
世界は作り物で一向に構わない、
行き交う総ての人間が蝋人形でも。

世界の始まりの店から a

 「僕があの子に下心がなかったかと言えば、正直嘘です」
「…へぇ」
「貴方のことを心底愛しているということは知ってしました。
本人がよく喋るので。
でも人間、完璧に近いものほど
綻びが出易いものです。そうでしょう?
まぁとにかく僕は隙あらばその綻びに入り込んで
惹き付けてやろうという算段で、
モデルの件を引き受けました」
「えらく自分に自身があるんだな」
「えぇ」
目の前の青年は至極あっさりと自分の行いを肯定した。
優美な動きで目の前のカップを持ち上げる、
その仕草にすら高貴な印象を植え付けた。
日本人としてはあまりに掛け離れた美貌、
黒い瞳を彩る睫毛や、
ティーカップに触れる指先のしなやかさとか、
とにかく彼は人の目を惹き付けて病まない人種なのだろう。
あの子が絵のモデルにしたいと思うことも、
不服ではあるが頷けた。
確かに、彼は生きていることすら
疑問に思えるほどに完成されていた。
「貴方はあの子が絵を描いている姿を
間近でご覧になったことはありますか?」
「ない、な」
「描いている絵は?」
またしても重たい首を横に振る。
興味がないわけではない。
ただあの子の作品を目にした時
何て言ったらいいのかわからないから、
臆病になってずっと逃げている。
俺の中では絵なんて高尚な趣味は持ち合わせていない。
だからきっと、自分の軽率な言葉であの子を傷つけるのが怖かった。
いや、それよりもっと怖いのは
俺が自分を傷つけてしまって落ち込むのを
誰よりも傷むあの子は
それを悟られまいと隠すことに
俺が気付けないことだ。
知らない場所であの子の傷を増やして
気付いた時、絶望の淵まで追いやっていないか?
あの子は傷ついても悲鳴すら上げない。
ただじっとその傷に耐え続ける。
治ることのないその傷を抱えて
見ないフリをして、必死に笑うから。
「普段はあんなにへろっとした感じなのに
キャンバスを前にするとね、すごく変わるんです。
獲物を捕らえる肉食獣というか、
きっとあの時あの子は
自分の中で押し殺している
とても本能的で野蛮な感情を表すんですよ。
僕はきっと、あの目にやられたんです。
あの目に殺されて、生き返って、恋をした」
ただ人に拒絶されることが
死ぬより怖いあの子が
己の強欲、嫉妬その総てをぶつけられたのは
一枚のキャンバスのみ。
理解など求めない、
共感なんてものも必要ない。
ひたすらに思いの丈をぶち込むその姿は
なにか、孤高に戦う中世の騎士を想起させた。

アナモル・フォーシス『MONDO PIECE』 d

見上げるほどに大きな背丈、
うっすらとした西洋人なのに
瞳は東洋の切れ長の深い色。
私とは少し違う、夕焼けの一番深い、赤茶の瞳。
私の五分の一くらいの時間しか生きていないのに
何も知らないくせに
あの瞳が音もなく私の隙間に入り込んでくる。
私が救済するために部屋に通した時は
あんなに腐敗した目をしていたのに
リブラリアンに転生した後は
何か吹っ切れたのか
今は飄々と私の周りをうろついているのだった。

描かれた星空に向かって手を伸ばす。
乱雑に巻いた包帯が痛々しく幾重にも交錯していたが
もう痛みは何処かへ消えていた。
光の下で陰る掌をじっと見つめる。
同じ形、感触、温度
その総てが重なったあの日を、私は懐古していた。
同じ顔。同じ個体。
でも心だけ、二つに切り離されてしまった私たち。
今はもう、話をすることも
抱きしめることも叶わない
願ってしまった故の罰。
「あぁ、やっぱりここにいた」
天地逆になったアイザックの顔が被さる。
「いつも此処にいるな、お前」
「…なに?」


連れられてやってきたのは
私の部屋だった。
見慣れた部屋なのに
テーブルの上には見慣れないものが鎮座している。
「…なにこれ」
「見てわかんないか、ティーセットだよ」
「いや、そういう意味じゃなくて…なに?」
少し屈んだ体制で私に手を伸ばす。
これはなんの真似事だろう…。
私が何もせずに突っ立っていたら
痺れを切らしたアイザックが
強引に私の手を引いて椅子に座らせた。
何か言い返そうと思ったけど諦めた。
彼に自分の常識なんて通用するはずがない。
座らされた席の前には
写真や映像で見たことのある
見事な細工の御菓子。
「なにこれ」
「今日は質問が多いなぁ。ケーキだよ。
お前写真で見て食べたがっていたろ?」
「知ってる」
「もっと細かく言うと、ホワイトチョコのムースです。
横のは飴細工の花。勿論食べられます」
「どうしたの」
「作ったの」
「誰が?」
「俺が」
「…はぁ?」
もう彼の考えていることが一ミクロンも理解できない。
脇に置いてあったスタンドから
銀のフォークを取り出して私に手渡す。
「食べてみて」
「………」
やっていることはいつもの戯言だけれど、目が笑っていない。
その雰囲気に気圧されて仕方なくフォークを受け取る。
ホワイトチョコレートのムースは見た目以上に柔らかくて繊細だった。
フォークを入れるとふんわりとした泡がはじける音がした。
チョコレート特有の甘くて濃厚な香りが口の中に広がる。
「どう?」
「………どうって」
「おいしい?」
「……多分」
「そっか」
しばしの沈黙が私の心に微細な圧力をかけてきた。
堪えきれずに何か発しようとした時、
「お前の心の空白をほんの一瞬、埋められたかなぁ」
ーあぁ、そうか。
「…どうだろうね」
彼はなりたかったのだろう。
私が体を抉るナイフの代わりに。

この身体は鈍感だ。
どんなに自分が傷だらけでも
それに気付くことはない。
一瞬の痛みをすぐに忘れてしまうから。
なのに彼は
私の鈍い心に可能性を教えてしまった。
頑なに閉ざされた心が少しだけ開いて
人の温もりが染みこんだ。
そしたらその温度は血を巡らせて
私の心が如何に悼んでいたのかを
明確にしてしまった。
痛みはまたすぐに消える、なんの痕跡も残さず。
だから私は生涯この謎を
解き明かすことなんて出来ない。
一生、穴だらけの欠陥品。
「お前が望むなら毎日作ってやるさ。
だからその代わりナイフを辞めること。どう?」
「…考えておく」
「素直じゃないなぁ。おまけに可愛くない」
白い指が頬のクリームを拭う。
なぜ
何故私に構うんだ。
私の隙間に入ろうとするんだ。
違う
違う本当は
貴方じゃないのに。
「ーーーっ!!」
唇を滑る指を思い切り噛んだ。

アナモル・フォーシス『MONDO PIECE』 c

 「…あ」
目の前の彼女は俺の声に顔を上げるが
俺だと気付くとしまったという顔を一瞬覗かせた。
昨日隙間なく包帯を撒いた左腕を
恐らく掻き毟ったのだろう、
包帯は引き千切られ、襤褸切れのようで
辛うじて彼女の腕に纏わりついている。
うっすらピンク色、所所がどす黒く染まっていた。
こういう結末になることは
大方予想がついていた。
予想がついていたからこそ、自分に落胆した。
自分の言葉が彼女に届くはずはないのだと。
彼女はその一瞬の隙を突いて
俺の横を軽やかに擦り抜ける。
「エイミィ…!!」
呼びかけてもなんの反応も示さない。
小さな身体はあっという間に見えなくなった。


初めて会ったのはもう幾許も前のことだ。
総てに絶望して飛び込んだ海の先は
なんともメルヘンチックな小部屋だった。
ぬいぐるみやブリキの玩具が統治する
小さな王国のお姫様は
ウサギや狸の衛兵に囲まれて
静かに佇んでいた。
過ちを犯し暗い海を彷徨う愚かな人々を
灯台の如く導くを与える聖女は
夜の海の色をした瞳をしていた。
闇に包まれた光すら灯らない、漆黒の海。

あぁ、この瞳を
俺はよく知っている気がするんだ。

「…やさしくなんかしないでよ。
アンタがいなくなって生きていけなくなりたくなんかない」
そう突っぱねるのに
美しい神様のつくりもののような顔に涙を溜めて、
俺の袖をしっかり握った手は震えていた。
尽きていくタイムリミットを告げる砂時計の
落ちていく砂を必死に掴み取ろうとするように。
「ごめんな」
無力な自分を慰める言葉。
彼を救えない現実への懺悔の言葉。

このか弱い手を握ってあげることは出来るだろう。
今はもう無力ではない、微力な自分なら
彼の隙間を束の間埋めてあげることだって。
でも違う、違うのだ。
本当に望むものを与えてはやれない。

俺が彼の欲望を処理してやって
救われるのはほんの一瞬満たされる彼じゃない、
何も出来ないと思わせられて
ほんの少し誰かを救った気に浸れる自分自身だ。
「…ばかやろう」

美しい容姿を持った彼のまわりには
いつも人が溢れていた。
人々は彼を敬い、持て囃していたが
彼は心にいつも空白を抱えていた。
その空白に人は気付くことはなく、
或いは気付いたとしてもそれを補う術を知らない。
彼はその空白を煩わしく感じていた。
しかし過去の経験から
素直に心を開くことなぞ、出来るはずもない彼は
他者に面と向かってそれを求めることが出来なかった。
しかしある日、知ってしまったのだ。
空白を埋める術を。
その瞬間、彼は何を思ったのだろう。
とにかく、彼は初めて生きた心地を味わったに違いない。
「あぁ、これはこれは誉れ高き頭首様。
どうぞ私を買っていただけませんか」
自分をこんな目に遭わせた者への復讐を糧として。

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